72を切りたい!ゴルフを愛するアマチュア中年オヤジの「ゴルフ本」レビュー

~ゴルフレッスン本の感想、ゴルフあれこれ、その他いろいろ。気の向くままに~

衣笠祥雄さん

 去る4月23日、プロ野球セントラル・リーグの広島カープで一時代を築かれた「鉄人」、衣笠祥雄さんが亡くなられました。1月に亡くなられた星野仙一さんと同じ、1947年1月のお生まれで、1970年代~80年代のプロ野球を彩ったスターが、偉大な足跡を残され、現世を去られました。

 

 1975年(昭和50年)生まれの私の世代は、プロ野球がお茶の間の最大の娯楽であったといえる、最後の時代を経験した世代だと思います。

 

 私自身、大の野球ファンで、当時は試合のない月曜日を除けば、毎晩リビングのテレビでは野球中継が流れており、その展開に父、母、弟と私の4人家族で一喜一憂していました。そんな時代の雰囲気、ある意味「昭和の時代の最後の雰囲気」を知っているのは、おそらく今の40代前半あたりの、私たちが最後かも知れません。

 

 私は東京の郊外の出身なので、ヤクルト・スワローズのファンでした。当時、後楽園球場(現:東京ドーム)で行われる「巨人戦」のチケットは「プラチナ」でしたから、たまに野球好きの父に連れて行ってもらったプロ野球観戦といえば、ガラガラの神宮球場だけでした。

 今みたいに個別シートではない、近所の小さな公園にあるような長椅子の外野席です。何かの間違いで優勝か上位争いでもしていなければ、また背番号11の「調布のヒーロー」荒木大輔さんが登板でもしていなければ、「ヤ―広」のカードなんて、外野席でも内野席でもスタンドはもうガラガラ。それどころか、けっこう怖い。ナイターなのになぜかサングラスを外さないコワモテのヤクザみたいなオジサンがビール片手に、煙草ガンガンに吸いながら大声でヤジを飛ばしていて(受動喫煙などという言葉も概念も、一般にはなかった時代です)、パンチパーマの若い兄ちゃんが重たい旗を一生懸命振っている、ゲーム展開によっては、レフトスタンドから相手ファンがライトスタンドに「ワリャー、なんじゃ、こりゃぁ!」と殴り込みに来て、ヤクルトファンが「何だテメェら、ふざけんじゃねェ!」と果敢に応戦する(ある程度「ガス」が抜かれたところで、しばらく静観していたガードマンの方や警察官の方が「やれやれ、まったく……」という感じで止めに入って、事態はなんとなく収まる)ということもたまにある、今では考えられない、そんな時代です。

 子どもの私は怖かったけど、すごく楽しかった。私は野球観戦のときだけは好きなだけ飲ませてもらえるコーラやジュース、好きなだけ食べさせてもらえるポテトやお菓子を片手に、衣笠さんなどが躍動されるグラウンドに夢中になっていました。

 

 広島カープでは、当時の私はショートで華麗な守備、塁に出れば快足を飛ばす高橋慶彦選手が好きでしたが、衣笠選手も好きでした。1975年(昭和50年)生まれの私は、星野さんは監督としてのお姿しか覚えていませんが、長くプレーされた衣笠さんは、選手としてのお姿をよく覚えています。

 

 子どもだった私にとって、当時の高橋選手は「ヤンキーの兄ちゃん」みたいな風情で、それがカッコよかったのに対して、衣笠さんは「いつも笑顔の優しいオジサン」というイメージでした。

 

 実際に何度も衣笠さんを球場で生で見ましたが、私の印象に強く残っているのは、昔NHKさんが放送したNHK特集「スポーツドキュメント 江夏の21球」です。わが国におけるスポーツノンフィクション・ライターの先駆者として名高い山際淳司先生の有名な一編を映像化したものだと思いますが、その中で衣笠さんが登場されており、真剣な表情で「伝説の21球」の場面を語っておられるのが印象的でした。衣笠さんのイメージは、いつも「なんか怖そうだけど、いつも笑顔のオジサン」だったので。このNHKさんの作品はDVD化されており、私も買って持っています。今でもよく見直している、大好きな作品です。山際先生の一編も、何度も読み返しています。

 

 野球ファン、野球に関わる方々それぞれが、衣笠さんがいなくなってしまったことを、心から寂しく思っておられると思います。とくに、「赤ヘル軍団」の旗手であった山本浩二さん(1946年10月のお生まれ、衣笠さんとは同学年)や江夏豊さん(1948年5月のお生まれ、学年では衣笠さんの2つ下)は、寂しさを一層大きく感じておられるのではないでしょうか。

 

 一野球ファンとして、衣笠さんのご冥福を、心よりお祈りいたします。