72を切りたい!ゴルフを愛するアマチュア中年オヤジの「ゴルフ本」レビュー

~ゴルフレッスン本の感想、ゴルフあれこれ、その他いろいろ。気の向くままに~

尾崎豊(1)

 最近、ある方がお書きになった文章を読む機会があり、その文章によって、私が忘れていた、というより意図的に忘れようとしていた、あの伝説的ミュージシャン尾崎豊のことを思い出しました。

 

 より正確にいえば、「尾崎豊に心酔していた時代の私自身」を思い出したのです。

 

 「中年オヤジのゴルフ本レビュー」の中のコラム記事なのに、尾崎のことを書かせていただくというのは少し妙な気もするのですが、どうしても、書きたくなりました。おそらく1度の記事では書ききれないので、数回にわたることになるかも知れません。どうか、ご容赦いただければと思います。

 

 おそらく、あまり音楽シーンに興味をお持ちでない方でも、その名はどこかで聞いたことがあると思われる、伝説のミュージシャン、尾崎豊。1965年11月29日生まれ、1992年4月25日、27歳の若さで死去。当時の日本社会に、強烈なインパクトを与えたミュージシャンです。

 

 1975年生まれの私は尾崎の10歳下になりますから、尾崎の絶頂期より少し遅れて、彼の音楽に接しました。

 

 尾崎が亡くなった1992年4月は私は16歳で、数か月後に17歳になろうという年でした。その頃の私、どこにでもいるフツーの高校生で音楽好きの私はもちろん彼の名を知ってはいましたけど、まだ彼の音楽を聴いたことはありませんでした。

 

 尾崎が亡くなった日の翌日の新聞、特にスポーツ新聞は各紙ともに一面トップで、その後伝説となるカリスマの早すぎる死を特集していました。

 

 その日私は5時起きで、確か八王子の方の高校との練習試合が組まれている日だったと思います。試合がある日はいつもそうであるように、5時に起きて母が準備してくれた軽い朝食をたべて、6時前には自転車で家を出て、京王線のつつじが丘駅近くの駐輪場に自転車を置きました。時間に余裕があったので、駅売店でカロリーメイト(フルーツ味)」を1パックと缶コーヒー(「BOSS」)、そしてスポーツ紙「日刊スポーツ」を一部買い、「高尾山口」行きの各駅停車に乗りました。

 

 早朝で西へ向かう京王線の車内は空いていて、私は当時母に無理をいって買ってもらったウォークマンで流行りのポップスを聴きながら、買ったばかりの日刊スポーツに目を通すのですが、飛び込んできたのは私が読みたかった野球関連の記事ではなく、尾崎の死でした。

 

 「へー、尾崎って死んだんだ」

 

 そのくらいの感覚しかなく、彼の死の意味を理解することもなく、すぐに紙面を繰って、読みたかったプロ野球関連の記事に目を通し、また当時の高校2年生にはちょっと刺激の強い「大人向けの記事」を読んだりして浮ついた気分になりながら、あとは終点の高尾山口に着くまで眠ってしまったのを覚えています。

 

 今思えば、1980年代後半から始まった「バブル経済」の終焉を迎えることなった1990年代の初めは、それでもなお「バブル」の余韻を引きずっていた楽観的な時代で、その後長く暗い時代に突入することになることを、多くの人は予期していないという空気感が流れていました。当時高校生の子どもだった私はもちろん、そんな空気感を自覚していたわけではありませんでしたけれど。なんとなく、いい時代が続いていると、そんな空気が流れている時代でした。

 

 その日は、私にとっては八王子の方にある高校と野球の試合をして、結果を出せず監督さんに怒られて、夕方家に帰って好きな音楽やFM放送を聴き、夕食を食べて、フジテレビの深夜番組をちょっとだけ観て、ファミコンダービースタリオン全国版」を遊んで、午前2時前には寝る、という日でしかありませんでした。当時の私の日常では、ありふれた一日でしかなかったです。

 

 それから数年後、私が「彼」に心酔し、傾倒していくことになるとは、この日は夢にも思っていませんでした。彼がこの世を去ったことなど、翌日の教室でちょっと話題になったくらいで、その後は(おそらく他の仲間たちも同じように)すぐに忘れてしまい、彼には到底及ばないミュージシャンたちがデッド・ヒートを繰り広げる「ミュージック・チャート」に夢中になるという、ある意味「普通の高校生の日常」に、私も、同級生たちの誰もが身を置いていたのです。

 

 私は、やがて高校を卒業して、20歳になった頃に、その約3年前にこの世を去った稀代のミュージシャンの「凄み」に、圧倒されることになります。