72を切りたい!ゴルフを愛するアマチュア中年オヤジの「ゴルフ本」レビュー

~ゴルフレッスン本の感想、ゴルフあれこれ、その他いろいろ。気の向くままに~

尾崎豊(2)

 押入れの奥に乾燥剤とともにしまっていた、昔のCDを取り出してみると、つい時間が経つのを忘れて、一枚一枚手に取って眺めてしまいました。1980年代の終わりから、1990年代の中ごろにかけてのものばかりですが、深夜に一人でジャケット写真を眺めたり、歌詞カードをパラパラとめくったりしていると、時間が止まった世界に身を放り込まれたような奇妙な感覚を覚えます。

 

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 (初期のアルバム3枚。)

 

 尾崎のCDはすべて持っていますが、それらを取り出したはいいものの、少し躊躇を覚えました。

 ほかの歌手のCDなら、何も考えず、ただ懐かしさだけで笑顔すら浮かべながら、ただ楽しく眺めることができて、何枚かは実際にCDプレーヤーに乗せて聴いたりすることもできましたが、尾崎のCDだけは、それを躊躇し、結局聴けないままに元に戻してしまいました。

 

 私が高校を卒業したのが1994年の3月で、その後しばらくして、ほんの些細なことをきっかけに、以前から不仲であった父との亀裂が表面化し、決定的なものとなり、私は家を出て、見知らぬ街で暮らすことになりました。

 今思うと、まだ19歳、20歳のときのことですから、様々な形のない不安があっても、若い身体が覆い隠してくれた時期だったのでしょう。

 

 生まれ育った街から遠く離れた街で、時間や季節の流れに無自覚でいることができたおそらく最後の時期に、その数年前に亡くなった尾崎に出会うことになりました。

 

 尾崎が亡くなった1992年4月27日、私は何の興味も持ちませんでしたが、それから環境が激変した数年後に出会った尾崎の世界というものは、私には衝撃でしかなかった。

 

 「答えが、すべてここにある」と感じて、それからの私はアルバイトでもらったお金のほとんどを尾崎のCDや、その関連本などに費やしました。

 

 世の中では「Windows95」が上陸し、まさにデジタル時代が幕を開けようとしていましたが、まだカセットテープが元気で、「MD」すらなかった時代です。「CDコンポ」という高価なアイテムが若い世代の憧れだった最後の時代に、私は「CDラジカセ」で、ひたすら尾崎のアルバムを少し贅沢して買った「ハイポジ」のカセットテープに「ダビング」して、外出時のウォークマンでも、安い中古車のカセットオーディオでも、狭い部屋のCDラジカセでも流し続け、とにかく24時間「彼」と一緒に過ごしていました。

 

 当時交際していた女の子が、「おかげで、尾崎の曲ぜんぶ覚えちゃったよ」と言っていたのを思い出して、ちょっと懐かしいです。

 

 「答えが、すべてここにある」と、本気で思っていたのです。彼の音楽を聴きながら、まるで文学作品を読むのと同じ気持ちで、付属の歌詞カードを何度も何度も繰り返し読んで、ボールペンで書き込みをして、アンダーラインを引いてと、そんなことをしながら私は、彼の世界に引き込まれていきました。

 

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 (当時ラインマーカーって今みたいに色の種類があまりなくて、たぶんイエローが定番でしたね。書き込みは恥ずかしいので、書き込みのないページを選びました笑)

 

 それは「中毒」に近いものでした。42歳になった今、誤解を恐れずに正直に言えば、当時の私にとって、尾崎の音楽を聴くことは、強烈な「鎮痛剤」を打つのと同じだったのです。もっといえば、「麻薬」のようなものだったかも知れません。

 

 何もかも意に沿わない、自分が抱く理想とはかけ離れた現実しか送ることができなかった当時の私は、まるで薬物に依存するかのように彼の音楽にのめり込み、そして、今だからこう思うことができるのですが、彼の音楽の中に「沈んで」いきました。

 

 そんな毎日に限界が来たとき、私は尾崎の世界から去ろうと決めました。尾崎が悪かったとかそういう話では決してないです。彼がいなかったら、今の私はないと思います。ささやかながら仕事という形で社会での役割を与えていただき、妻に恵まれ、ゴルフというかけがえのないものに出会うことも、彼がいなければ、すべてなかったことだと思っています。

 そして、私のような形のファンを、尾崎はおそらく望んでいなかったということも、今は思います。

 

 感傷的な表現になりますけれど、23歳のとき、文字通り私は、尾崎と別れました。

 

 あれから20年、一度も彼の音楽を聴いていません。今回、CDを取り出して、ジャケット写真や歌詞カードの一部をスマホで撮影しても、そのCDをプレーヤーに乗せることはしませんでした。というより、乗せることができなかった、というのが正しいかも。乗せたら、20年前の自分に戻ってしまう気がしたのです。

 

 あくまで私個人の、尾崎豊という稀代のミュージシャンとのかかわりは、そういうものでした。

 

 お読みいただき、ありがとうございました。

 

 どうしたって、今と、明日を見つめて生きていくしかないんでしょうね。そんなことを思いました。

 

 最後に、私がいちばん好きな彼の作品はといえば……

 

 うーん、全部好きですが、一つ選べと言われたら、いちばん最初の「街の風景」、あとはダンスホールかなぁ。

 

 もしこのブログをお読みいただいている方で、尾崎のファンの方がいらっしゃったとしたら、あなたは何がいちばん、お好きですか?

尾崎豊(1)

 最近、ある方がお書きになった文章を読む機会があり、その文章によって、私が忘れていた、というより意図的に忘れようとしていた、あの伝説的ミュージシャン尾崎豊のことを思い出しました。

 

 より正確にいえば、「尾崎豊に心酔していた時代の私自身」を思い出したのです。

 

 「中年オヤジのゴルフ本レビュー」の中のコラム記事なのに、尾崎のことを書かせていただくというのは少し妙な気もするのですが、どうしても、書きたくなりました。おそらく1度の記事では書ききれないので、数回にわたることになるかも知れません。どうか、ご容赦いただければと思います。

 

 おそらく、あまり音楽シーンに興味をお持ちでない方でも、その名はどこかで聞いたことがあると思われる、伝説のミュージシャン、尾崎豊。1965年11月29日生まれ、1992年4月25日、27歳の若さで死去。当時の日本社会に、強烈なインパクトを与えたミュージシャンです。

 

 1975年生まれの私は尾崎の10歳下になりますから、尾崎の絶頂期より少し遅れて、彼の音楽に接しました。

 

 尾崎が亡くなった1992年4月は私は16歳で、数か月後に17歳になろうという年でした。その頃の私、どこにでもいるフツーの高校生で音楽好きの私はもちろん彼の名を知ってはいましたけど、まだ彼の音楽を聴いたことはありませんでした。

 

 尾崎が亡くなった日の翌日の新聞、特にスポーツ新聞は各紙ともに一面トップで、その後伝説となるカリスマの早すぎる死を特集していました。

 

 その日私は5時起きで、確か八王子の方の高校との練習試合が組まれている日だったと思います。試合がある日はいつもそうであるように、5時に起きて母が準備してくれた軽い朝食をたべて、6時前には自転車で家を出て、京王線のつつじが丘駅近くの駐輪場に自転車を置きました。時間に余裕があったので、駅売店でカロリーメイト(フルーツ味)」を1パックと缶コーヒー(「BOSS」)、そしてスポーツ紙「日刊スポーツ」を一部買い、「高尾山口」行きの各駅停車に乗りました。

 

 早朝で西へ向かう京王線の車内は空いていて、私は当時母に無理をいって買ってもらったウォークマンで流行りのポップスを聴きながら、買ったばかりの日刊スポーツに目を通すのですが、飛び込んできたのは私が読みたかった野球関連の記事ではなく、尾崎の死でした。

 

 「へー、尾崎って死んだんだ」

 

 そのくらいの感覚しかなく、彼の死の意味を理解することもなく、すぐに紙面を繰って、読みたかったプロ野球関連の記事に目を通し、また当時の高校2年生にはちょっと刺激の強い「大人向けの記事」を読んだりして浮ついた気分になりながら、あとは終点の高尾山口に着くまで眠ってしまったのを覚えています。

 

 今思えば、1980年代後半から始まった「バブル経済」の終焉を迎えることなった1990年代の初めは、それでもなお「バブル」の余韻を引きずっていた楽観的な時代で、その後長く暗い時代に突入することになることを、多くの人は予期していないという空気感が流れていました。当時高校生の子どもだった私はもちろん、そんな空気感を自覚していたわけではありませんでしたけれど。なんとなく、いい時代が続いていると、そんな空気が流れている時代でした。

 

 その日は、私にとっては八王子の方にある高校と野球の試合をして、結果を出せず監督さんに怒られて、夕方家に帰って好きな音楽やFM放送を聴き、夕食を食べて、フジテレビの深夜番組をちょっとだけ観て、ファミコンダービースタリオン全国版」を遊んで、午前2時前には寝る、という日でしかありませんでした。当時の私の日常では、ありふれた一日でしかなかったです。

 

 それから数年後、私が「彼」に心酔し、傾倒していくことになるとは、この日は夢にも思っていませんでした。彼がこの世を去ったことなど、翌日の教室でちょっと話題になったくらいで、その後は(おそらく他の仲間たちも同じように)すぐに忘れてしまい、彼には到底及ばないミュージシャンたちがデッド・ヒートを繰り広げる「ミュージック・チャート」に夢中になるという、ある意味「普通の高校生の日常」に、私も、同級生たちの誰もが身を置いていたのです。

 

 私は、やがて高校を卒業して、20歳になった頃に、その約3年前にこの世を去った稀代のミュージシャンの「凄み」に、圧倒されることになります。

女神の微笑み

 サロンパスカップ最終日は、独走で逃げ切るかに思われたイ・ジョンウン6プロが突然自ら崩れ落ちていく中、前日から静かに追い上げ、一気に優勝争いに顔を出した申ジエプロ、そして鈴木愛プロの3人による激しい争いとなりました。

 

 勝負の分かれ目は鈴木プロが申ジエプロに1打差リードで迎えた17番パー5、申ジエプロがイーグルを奪い逆転、このホール鈴木プロはパーで耐えるも、最終18番でボギー。申ジエプロはパーセーブで見事優勝、鈴木プロは単独2位、また大会を盛り上げた立役者、イ・ジョンウン6プロはボギーで単独3位という結果となりました。

 

 鈴木プロは残念でしたが、途方もない重圧の中でも、ご自身の好プレーに対してギャラリーから送られる声援にはしっかり応えつつ、見事なプレーぶりでした。あんなギリギリの状況でも、彼女には自分に送られる声援がちゃんと聞こえており、それに対しては短くともしっかり返答をするという姿を見て、礼儀正しい、素敵な人だなあと思いました。

 

 私もそのような人間でありたいと思いますが、なかなか……

 まだお若い鈴木プロに、いろいろ教えていただいている気がします。

 

 私は、今日はテレビ観戦していたのですが、終盤の白熱の優勝争いをみながら、「勝敗を分かつもの」とは、いったい何なんだろうなあ、と思っていました。

 

 このレベルの争いになると、日々の努力とか、行いとか、そういうところに差はないような気がするんですね。それでも勝敗は必ずつくわけで、それを決めるのは何なのかと思いました。

 

 プレーしている選手の方々は、勝敗という結果について、それを分かつ原因としてご自身の技術や、メンタルなどをストイックに追及されると思いますが、あれほどの高いレベルの争いになると、何か選手の方々ご自身の力では左右しきれない、何か人間の想像を超えた大きな力が、結果を左右するのかなと。よくいわれるように、「女神がほほ笑む」かそうでないか、ということなのかな、と。

 

 現PGA会長の倉本昌弘さんが、惜しくも優勝を逃した選手に対して、よく「今週は〇〇選手の週ではなかった」という表現をされます。私はこの倉本会長の表現がとても好きで、「努力にも、そして磨いてきた技術にも、何も差はない。ただ、その週の女神はたまたま微笑んで下さらなかっただけだ」ということなのだと思います。しかも女神は、誰に味方しようとか、誰を負けさせようとか、そんなことは考えず、ただ気まぐれに微笑みの相手を決めるのかな、と。

 

 最後まで激戦を争った鈴木プロ、イ・ジョンウン6プロも、たまたまサロンパスカップのあった今週は、「鈴木プロの週ではなかった」「イ・ジョンウン6プロの週ではなかった」ということなのだと思います。

 

 そんなことを思いました。

 

 17番の申ジエプロのイーグルからは、ゴルフは真っすぐ打っていくことがどれだけ大切であるのかを、改めて教わった気がします。1打目、2打目とも、ピンに向かって一直線を描くストレートボールで、素晴らしかったです。

 それにしても申ジエプロは、最初から上位に顔を出しトップで独走するというより、決勝ラウンドに入るといつのまにか上位に浮上してきて、最後一気にチャージして結果を出す、という勝ち方が多い気がします。私は個人的に、そんな戦い方をする申ジエプロを「サイレント・キラー」と呼んでいます(笑)

 じっと静かに身を潜めて好機をうかがい、ここぞというところで、一撃で相手を葬る感じ。いい意味で、けっこう怖いなあと(笑)

 今日の17番イーグルなど、まさにそんな一撃だったと思います。

 

 GWも終わってしまいました。次は夏休みまで、まとまったお休みのないという方も多いと思います。私も同じです。

 

 明日も元気で、いい一日になるといいですね。

 

 それでは本日はこのあたりで。

 

 おやすみなさい。

サロンパスカップ3日目

 今日は、「ワールドレディスチャンピオンシップ サロンパスカップ」(茨城GC西コース・茨城県つくばみらい市)3日目を観戦に行ってきました。

 

 つくばエクスプレスみらい平駅近くの駐車場にクルマを停めて、駅前からギャラリーバスに乗って会場へ。7時半に到着しましたが、本日はよく晴れて、すでに多くのギャラリーが詰めかけていました。

 

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 私と妻は、ギャラリープラザで軽い朝食をとりながら、ペアリング表を片手に、さて今日はどのように観戦しようかと考えましたが、今日の目標は「18ホール歩こう」ということになりました。

 

 ツアー観戦に行って「18ホール歩こう」という目標って、なんだそりゃ?と思われるかも知れませんけれど、いつも特定の組について18ホールを順に巡るということはせず、気になる選手の入っている組をいろいろ見て、疲れてきたら比較的ギャラリーの少ないホールの良い場所を確保して、そこで定点観測するという形で観戦していましたので、18ホールの中には足を運ばないホールもいくつかあったんですね。なので、今日はとにかく全部のホールを歩こう、と。

 

 また、自分たちのふだんのラウンドだとほとんどがカート利用ですから、考えてみると18ホールを歩いて回るというのは、私のような趣味のアマチュアには、ほとんどないのでは?ということもありました。

 

 そこで、今回はトップスタート(8:45)の第1組・川岸史果プロ諸見里しのぶプロの組について、まず9ホールを観戦しました。

 

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 第1組は2人ペアということもあって、サクサクと小気味よいペースで進んでいきます。最初の9ホールを、私の時計では1時間半ジャストくらいで終えていました。9番を終えたとき、次の組(李知姫プロ、キム・ハヌルプロ、永峰咲希プロ)に30分近い差をつけていましたからね。

 

 私がゴルフを始めたころ、まさに波に乗って絶頂期にあった諸見里プロをしっかり見れたのは楽しかったですし、昨年待望の初優勝を挙げた川岸プロも魅力的な選手でした。

 

 個人的な印象では、早い進行の中でも、そもそも歩き方から意識してメンタルをコントロール、凛々しさを感ずる諸見里プロに対して、自然体でやわらかく、ほんわかとした大らかさを感じる川岸プロ、そういう違いも感じて楽しかったです。川岸プロの自然体は、ご自身も選手として超一流(といって良いと思います)といえるお母様(喜多麻子さん)がキャディを務められていたことも大きいのかもしれません。

 

 それにしても、川岸プロは飛びますね。パー3を除けば、ティショットは毎ホールとも諸見里プロを20~30ヤードくらいオーバードライブしているように見えました。常に距離で差をつけられて、毎回先にセカンドを打つ格好にならざるを得ない諸見里プロも大変だなぁと思う一方、逆にいえば、常にセカンドを先に打ってポジションを取っていけるともいえるので、かえって優位に立てる部分もあるのかな?とも思いました。

 

 9ホール見たあとは、休憩もかねて、スタート前の選手のショットやパッティングの練習風景を見学し、最終組の鈴木愛プロのティオフを見ました。鈴木プロはショット練習場、パッティング練習場でも、際立つオーラがありました。

 ティショットを放ってフェアウェイを歩き始めるところで「愛ちゃーん、がんばってー!」と声をかけた妻に、笑顔で反応してくれた鈴木プロ。多くのファンを集めているのも納得!です。

 

 その後は10番から18番まで、とにかく歩いて、15時ごろには会場を後にしました。

 

 18ホールを「ウォーキング」のつもりでしっかり歩くと、けっこう疲れますね(笑)。帰宅して、すぐに寝てしまいました。

 

 明日は最終日。そしてGWも最終日。

 

 そう思うとなんとなくさびしい気もしますが、誰にとっても、明日が良い一日となりますように。

鎌倉パブリックゴルフ場

鎌倉パブリックゴルフ場

〒247-0052 神奈川県鎌倉市今泉5-1003
TEL 0467-44-8185 FAX 0467-44-8188

 

http://www.kamakura-pg.com/

 

 古都鎌倉に位置する、パブリックコースです。よく行く方々の間では、通称「鎌パブ」。

 その立地上、多少お値段は張りますが、気軽に楽しめるコースです。

 距離が短い分、各ホールとも工夫されていて、ショートゲームをおざなりにすると意外とスコアが崩れるコースです。特に9番の砲台グリーン周りは、なかなか難しいと思います。

 

 私がゴルフを始めてから3年ほど、月2ペースでお邪魔していました。2010年頃のことだったと思います。規定枚数のスコアカードを出して手数料を支払って、「PGパスポート会員」というのになれば、誰でもクラブHCがもらえるのがいいところ。レストランの壁にちゃんと自分の名札も掲示してもらえて、パブリックコースなのにちょっとした「メンバー気分」が味わえるのがウレシイです。

 私もクラブHCをいただいて、月例会に参加したりしていました。高価な会員権を手に入れなくても、競技会に参加できるというのは大きな魅力だと思います。残念ながら当時の私は「Bクラス」から抜けることはできませんでしたけど……

 

 こう言ってはなんですが、ちょっと「軟派」なコースで(それが長所なんですけどね)、いろいろ楽しいイベントを積極的に開催されているコースです。

 今この記事を書くために、久しぶりにホームページを拝見したのですが、去る3月には、「橋本マナミさんとニアピン対決!プレミアコンペ」ということで、女優の橋本マナミさんとご一緒できるイベントが開催されていたそうです。

 

 以前、私は「宍戸ヒルズカントリークラブ・西コース」でコースデビューしたことで、ゴルフに魅せられたというお話を書かせていただきましたが、その後悩んだのは、ゴルフを始めたばかりの私には「ゴルフ仲間」がいないということでした。「怖い先輩」以外に、一緒にゴルフをしてもらえる仲間が欲しかったのです(笑)。毎回「怖い先輩」と一緒では、身体とココロが持ちませんので……(笑)

 

 そこで、いろいろなゴルフコースのホームページなどを見ていたら、今回ご紹介する鎌倉パブリックさんは、気軽に参加できるオープンコンペを多く開催されていることを知り、それらに一人でエントリーして参加しました。

 

 ゴルフを始めたばかりのビギナーが、オープンコンペにエントリーするというのは、さすがにちょっとビビりましたが、当時の私はとにかくコースに出たいという思いが生来の小心に勝るほどに強かったので、「エイっ!」という感じで、思い切っていろいろと参加していました。

 

 結果、半年も通えば男女ともに同年代のゴルフ仲間が思ったよりも多くできて、そうして仲間になった方々と北関東方面や静岡方面など、いろいろなコースに出かけるようになりました。その後、残念ながら疎遠になってしまった方々もおられますが、今でもお付き合いさせていただいている方も多くいます。

 

 せっかくゴルフを始めたけれど、まだゴルフ仲間があまりいらっしゃらないという方は、思い切ってお一人でオープンコンペなどにエントリーされるのも、いいと思います。

 その日の朝までまったく知らなかった人と、ほとんど丸一日、一緒に遊んで、昼食やコンペ後のパーティまで一緒に過ごせば、たいていは仲良くなれるものです。お名刺を携帯されている方同士なら、名刺交換くらいはすることになります。私もそうでした。そうして気が合う仲間がみつかれば、じゃあ今度は他のコースにいってみようよ、というように、世界が広がっていく楽しみがあると思いますよ。

 

 「ちょっと軟派なコース」とご紹介してしまいましたが、ホームページによれば「恋のホールインワンという企画もあるようですから(笑)、ご興味ある方は参加してみるのも楽しいと思います。開催は5/19(土)ということですから、まだエントリーできるのではないでしょうか(あ、私は鎌倉パブリックさんの「回し者」ではありませんよ、念のため笑)

 ちなみに10年前は、同趣旨のイベントは「鎌倉ラブストーリー」という名称で開催されていました。まさに当時の私たち世代を「直撃」する、なかなかのネーミングだったと思います(笑)

 

 パブリックコースという位置づけではありますが、レストランのメニューも個性的でおいしいものが多いですし、お風呂などの施設もしっかりしています。コースメンテナンスも丁寧になされています。

 

 距離が短いこともあって、ビギナーの方は、ここで腕を磨くのも、悪くないと思います。ただ、決して脅すわけではないですが、パブリックとはいえ、立地上、相当の腕前の方々も足を運ばれるコースです。シングルの腕前で、かつ社会的に驚くほどの地位におられる方と、何度か私もご一緒したことがあります。そういった「コワモテ」の方々(?)に、厳しくマナーを教えていただきましたが、とてもいい経験になりました。

 

 私はその後千葉県の方に転居してしまったので、今はあまりお邪魔することはなくなってしまいましたが、個人的にはオススメのコースです。

 

 特に東京23区、神奈川では川崎や横浜、湘南エリアにお住いのビギナーの方、ぜひ一度、いかがでしょうか。

母の見舞い

 昨日は、しばらく入院していた母が退院したので、そのお見舞いというか、様子を見に行ってきました。

 

 私が思っていたよりも元気そうだったので一安心というところですが、治療はこれからが本番ということで、その治療方法にもいくつかの選択肢があるようで、どれを選ぼうか悩んでいると聞きました。

 

 私も素人なので、どのような治療方法を選ぶのがいいのか、まったくわからず、ただ母が思うままに、いろいろ話すのを聞くことしかできませんでした。

 

 結局、現代の医学を信じるしかないのかな、ということになり、あとは昔の思い出話などをひとしきりして、お見舞いは終わりとなりました。

 

 高齢の母が、まるでひとり言のように綴る思い出話といえば、おそらくどなた様のお母様も同じなのかなと思ったりもするのですが、はるか昔の、私が生まれたときのことから、私が小さな子どもの頃の話ばかりです。今までも、何度も聞いた、同じような話ばかり。

 

 それに相槌を打ちながら、今年で43歳になる私は、自分ではけっこう長い時間を生きてきたと思っていても、母の中では、私は小さな子どものままなのだなと。

 

 これでも一応、世の中のお役に立っているかどうかはわかりませんが、私なりに真面目に仕事をして、良い妻に恵まれて、社会人としてやってきたつもりではいて、少しは顔の皺も増え、ところどころに白髪の混じった私を前にして、それでも母の中では私は永遠に、私は小さな子どものままなのだな、と思うと、なんともいえない気分になりました。ある種の感傷と、寂寥と、そして一抹の後悔とともに、時間が流れることの残酷さといいますか、そんなことを感じました。

 

 今の私には愛する妻がいて、愛するゴルフがあり、ささやかながら私が世の中に貢献できる仕事を与えてくださる方々がいて、十分に恵まれた日々を送っているつもりです。

 

 そんな中で、時間は確実に流れて、季節は過ぎているのだな、と。そんなことを思いながら、私は深夜の高速道路を飛ばして、今の私のかけがえのない自分自身の家庭に戻りました。

 

 およそ、「ゴルフ本レビュー」らしからぬ、とりとめのない記事となりました。

 

 昨夜の天気予報によれば、本日の関東地方は荒れ模様とのことでしたが、午前7時を少し回った今のところでは、よく晴れていますね。

 

 よい一日となればいいですね。

 

 いろいろありますが、明日(5/5)は、「サロンパスカップ」の3日目を観戦に行く予定です。

 

 いろいろ思うところあった後は、どこにも出かけずに、何もしないで家で過ごそうかとも思いますけれど、いろいろあるからこそ無理して出かけることも、ときには必要かな、などと思ったりして。

 

 それでは、今回はこのあたりで。

 

 例によって駄文となりました。

 

 よき一日をお過ごしください!

客観的にみてもらうことの大切さ

 先日、仕事が早く終わったので、夜になっていつもお世話になっている練習場に行ったときのこと。私は自分なりの課題をもって、真面目にボールを打っていました。

 

 身体の感覚的には悪くない調子なのですが、妙にプッシュアウトが出たり、情けないトップが出たりと、出る球は最悪レベルのものばかり。

 

 「なんでかな~、悪くないんだけどな~」と思いながらも、ちょっとヤバいかなと思っていたところ、お茶を片手に打席のチェアにやる気なさげに(?)座っていた妻が、

 

 「ちょっと、手元が遠いんちゃいますか?」と一言(注:妻は大阪人、私は東京人)。

 

 「はぁ?何言ってんだオメーは」「奥田靖己さんかよオメーは」と言いたくなるのをグッとこらえて(笑)、アドレスを取り直してみました。うーん、確かに遠いかもなあ、でもいつもこんな感じだしなぁ……

 

 と、ちょっと変だよなとは思いつつも、そのまま「忘れよう」としていました。

 

 で、それから数日後、今度は妻を置き去りにして一人で練習場に行ったとき、「おぉっ!」と思いました。

 

 妻がいう「手元が遠い」というのは、私にとっては「両腕が胸に乗っていない」ということと同義だったようです。いつのまにか、アドレスで両腕が「胸に乗って」おらず(完全にワキが開いて、両腕が自由になっている状態)、ただ両肩から下にダラリと垂れ下がるばかりで、身体から離れてしまっていたのですね。これでは、身体と腕が別々に動いてしまって、私の目指す「A系」ではどうにもならなくなってしまう。

 

 そのときに、恥ずかしながら私は初めて「両腕が胸に乗る」という感覚を学びました。

 

 「そうか、ベン・ホーガン先生がおっしゃっていたのは、このことだったのか……」と、本ブログのレッスン本レビュー(国外)でもご紹介した名著「モダン・ゴルフ」で書かれていたことを、初めて実感をもって理解できたような気がしました。同著の中で、ホーガン先生が「スイング中に腕が胸に乗る」感覚を、大変重視されておられる箇所があります。それを実感をもって、思い出すことができました。

 

 調子を崩されている方は、ご自身の日頃のスイングをよくご存じの誰か、レッスンを受けている先生はもちろん、一緒にゴルフを楽しまれているご家族やご友人など、どなたかに客観的にスイングを見てもらうといいかも知れません。一生懸命、真面目に練習していても、夢中になるあまり見えなくなっている部分も、あるかも知れませんから。

 

 手元の遠さを指摘してくれた妻は、その後、自ら打席で打つことはせず、またスヤスヤと寝てしまいました。やっぱり練習場は、昼間に行くべきかも知れません(笑)